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カテゴリー「バイク、旅」の記事

2017年12月17日 (日)

台耕地稲荷塚古墳群

 さいたま市の側ヶ谷戸(そばがいと)古墳群の一つ、台耕地稲荷塚古墳は、直径24m、高さ2mの円墳で、ほぼ原型をとどめていると考えられている。発掘調査では太刀や鉄鏃(てつぞく=鉄製のやじり)が発見されたという。ここは公園みたいに整備されているので、ゆっくり見学することができる。周辺にはまだけっこう古墳があるようなので、また機会をあらためて見に行こうっと。

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2017年12月15日 (金)

上之稲荷古墳

 さいたま市の側ヶ谷戸(そばがいと)古墳群の一つ、上之稲荷古墳は、かつては直径20m、高さ2mの円墳だったが、現在は大きく変形しているという。個人所有ということで、民家にはさまれてなんとか生き残っている。稲荷はきれいに整備されているが、いつまでもちゃんと残してほしいもんだ。

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2017年12月13日 (水)

山王山古墳

 さいたま市の側ヶ谷戸(そばがいと)古墳群の一つ、山王山古墳は慈寶院というお寺の境内にある。もともとは円墳だったようだが、墳丘が削られ、石室が露出した状態で現代の墓地と並んでいる。発掘調査ではまがたまやガラス玉が出土したという。慈寶院が創建されたのは平安時代ということで、鴨川に近いこの地は古代から人が住むにはいい場所だったんだろう。

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2017年12月11日 (月)

稲荷塚古墳

 さいたま市の鴨川流域には相当数の古墳が存在したと考えられている。そのうち側ヶ谷戸(そばがいと)古墳群と呼ばれる古墳群の中には、けっこう大きな古墳もある。大宮西高校の校内にある稲荷塚古墳は、市内に残る古墳としては最大で、直径35m、高さ6mの円墳だ。発掘調査ではまがたまや埴輪、刀なども出土したそうだ。大宮駅をはさんで反対側には2400年前創立と伝えられる武蔵一宮氷川神社もあり、この周辺は昔から有力者が住んでいたんだろう。

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2017年12月 9日 (土)

武蔵一宮氷川神社

 さいたま市の大宮駅の近くにある武蔵一宮氷川神社は、いまからおよそ2400年以上前に創立されたと伝えられる歴史ある神社だ。「大宮」という地名もこの氷川神社に由来するそうだ。古代には各地に国造(くにのみやつこ)という支配者がいたが、武蔵国(いまの東京都、埼玉県、神奈川県の一部)の国造として足立郡司を務める武蔵氏が、氷川神社の祭祀権を持っていたという。その武蔵氏の1人、武蔵武芝という人物は、平将門の乱で重要な役割を演じている。武芝は善政で人気があったが、新任の武蔵国司として赴任してきた興世王(おきよおう)と源経基が、武芝を一方的に攻撃してしまう。このトラブルに将門が介入し、興世王とは手打ちをするのだが、経基は京に逃げ帰り、将門謀反と訴えてしまうのだ。結局、将門は藤原秀郷・平貞盛軍に敗北するが、貞盛はここ氷川神社で戦勝を祈願したという。武芝の本拠地は氷川神社周辺にあったのだろうが、その場所はわからない。その後の武芝の消息も不明だ。

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2017年12月 1日 (金)

府中愛宕山古墳

 茨城県石岡市のJR高浜駅近くにある舟塚山古墳群の一つ府中愛宕山古墳は、全長96mの前方後円墳だ。築造時期は6世紀初頭で、300m離れた場所にある舟塚山古墳のすぐあとだと考えられている。埋葬者は不明だが、築造時期や場所からみて同じ一族かもしれない。府中愛宕山古墳は大阪府羽曳野市の応神天皇陵(誉田御廟山古墳)との類似性が指摘されていて、ヤマト王権ともなんらかのつながりがあったのかもしれない。

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2017年11月30日 (木)

舟塚山古墳

 茨城県石岡市は古代、常陸国府が置かれたまちだ。石岡市の市街地は霞ヶ浦の北西に広がっているが、平安時代の霞ヶ浦はもっと大きかったようで、JR石岡駅の隣 高浜駅近くの高台は入江を望む生活に適した場所だったんだろう。ここには舟塚山古墳群といって40基もの古墳が分布しているが、その中で最も大きいのが舟塚山古墳だ。舟塚山古墳は墳丘の長さ186mの前方後円墳で、県内最大、東日本でも第2位の規模を誇る。築造されたのは5世紀後半で、もちろん埋葬者はこの地方の有力な豪族だったのだろう。

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2017年11月29日 (水)

常陸国府跡

 奈良時代に書かれた常陸国風土記(ひたちのくにふどき)が残ることでも有名な常陸国は、現在の茨城県にほぼ相当する令制国だ。国府が置かれたのは現在の石岡市で、石岡小学校の校庭から国庁の遺跡が発掘されているが、国庁は5回にわたって建て替えられたようだ。10世紀半ばに坂東(いまの関東)で乱を起こした平将門は、はじめは一族内での争いに巻き込まれただけだったのだが、興世王(おきよおう)とか藤原玄明(はるあき)とかいった問題児たちに頼られてこれを助けていく中で、国家に対する反逆の道を突き進んでしまうはめになる。その発端となったのが939年11月の常陸国府での戦いだ。このとき国府軍は3000人だったが、将門軍はわずか1000人でこれをたちまち打ち破ったという。この後将門は下野国(しもつけのくに)、上野国(こうずけのくに)などを次々と攻略、石井(いわい)を拠点に新皇を称することになる。

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2017年11月13日 (月)

高倉塚古墳

 かつて武蔵国府のあった府中市には、竪穴建物跡や古墳がたくさんある。それらの遺跡は、多摩川沿いの幅1〜2㎞の沖積低地と、そこから一段高い立川段丘との境界線である府中崖線(がいせん)にほぼ沿う形で分布している。分倍河原(ぶばいがわら)駅周辺に分布する高倉古墳群もその一つで、28基の古墳が発見されたということだが、そのうち高倉塚古墳がきれいに復元されている。すぐ隣に民間が立ち並んでいて、ちょっと惜しい感じだ。

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2017年11月12日 (日)

武蔵府中熊野神社古墳

 かつて武蔵国府のあった府中市の国道20号線甲州街道沿いに、武蔵府中熊野神社古墳がある。この古墳は四角い墳丘の上に丸い墳丘が重なった上円下方墳で、全国でも珍しい形の古墳だ。最近になって築造当時の姿に復元され、石葺きの立派な姿になった。すぐ横には古墳展示館もあり、復元された石室の中に入ることもできる。熊野神社古墳が築造されたのは武蔵国府が置かれるちょっと前ということで、被葬者は国府設置に関与した有力者ではないかという見方もできるだろう。

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