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カテゴリー「バイク、旅」の記事

2020年6月29日 (月)

花月園駅前踏切

 京浜急行電鉄の花月園前駅は、つい最近花月総持寺という駅名に変わったが、日本一長い踏切がある駅として知られている。JR横須賀線、京浜東北線、東海道本線、東海道貨物線、京浜急行本線の計10本の線路があり、ひっきりなしに電車が通過する。もちろん、日中はほぼ「開かずの踏切」状態だ。人道橋からは、通過する電車も踏切の様子もよく見える。駅の住所は横浜市鶴見区生麦5丁目で、あの生麦事件の現場はここから1㎞くらいだ。薩摩藩の大名行列に乗り入れたイギリス人が殺された生麦事件は、その後薩英戦争へと発展するが、薩摩藩はイギリス艦隊に打撃を与え、一転してイギリスとの関係を深めていく。

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2020年6月27日 (土)

江戸城の門⑮ 和田倉門

 いまは皇居外苑和田倉噴水公園がある和田倉地区は、かつては東京湾の入江に面していたそうだ。江戸時代初期に埋め立て工事が行われ、荷揚げ場や倉庫が置かれたが、その頃和田倉橋と和田倉門がつくられたという。その後は大名屋敷になったり、幕府御用屋敷になったり、厩(うまや)になったりしたようだ。1868年10月13日、明治天皇はここ和田倉門から江戸城に入城、時代は江戸から明治に移る。残念ながら門じたいは関東大震災で大破し、石垣が残るのみだ。

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2020年6月26日 (金)

江戸城の門⑭ 馬場先門

 徳川家光時代に築かれた馬場先門は、はじめは橋が架けられず、武士の通行さえ許されない(というか、そもそも通行できない?)門だったそうで、「不開御門(あかずのごもん)」と呼ばれたそうだ。ここで家光が曲馬(馬の曲芸)を見物したことから、馬場先門という名前になったという。その後橋も架けられたが、明治時代に提灯行列で多くの死傷者が出たため、橋が撤去されて道路ができたという。馬場先門の近くには、明治時代に製作された楠木正成像が堂々とそびえている。

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2020年6月24日 (水)

江戸城の門⑬ 一橋門

 江戸幕府を開いた徳川家は、将軍家(宗家)を尾張、紀州、水戸の御三家が固めるという体制を確立させた。家光直系が途絶え、紀州家から将軍家を相続した第8代将軍吉宗は、後々の後継者問題を考えたのか、自分の次男と四男をそれぞれ田安家、一橋家として独立させる。さらに、吉宗の長男である第9代将軍家重は、自分の次男を清水家として独立させた。ここに田安、一橋、清水の御三卿(ごさんきょう)が成立、御三家とともに将軍家を支える体制が固まった。御三卿の屋敷はいずれも江戸城内にあり、田安家と清水家はいまの北の丸公園に、一橋家は平川門の北側、千代田区大手町1丁目あたりにあった。現存する田安門と清水門は、その名のとおり田安家と清水家の屋敷にあった門だ。しかし、一橋門だけは明治時代に撤去されてしまい、一橋家屋敷跡もビル群になってしまった。一橋門は、いまは石垣の一部が残るだけだ。上空は首都高が走っていて、往時の姿を想像するのも難しい。

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2020年6月20日 (土)

金杉踏切

 JR日暮里駅と西日暮里駅との間にある金杉踏切は、常磐線の踏切だ。踏切の真上は京成本線も走っていて、スカイライナーもときどき通過する。さらに、日暮里・舎人ライナーもちらっと見ることができて、なかなかの鉄道ビュースポットだ。「金杉」というのは古い地名だそうで、昔は金杉村という村があったという。

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2020年6月14日 (日)

渋谷ヒカリエ

 かつて渋谷の東急文化会館には五島プラネタリウムがあった。五島プラネタリウムは、他の最新鋭プラネタリウムがコンピューター化された後も、昔ながらの解説員による生解説を続けるなど、独特の雰囲気を持ったプラネタリウムだった。その五島プラネタリウムも東急文化会館もいまはすでになく、新たに建設されたのが渋谷ヒカリエだ。ここの11階スカイロビーはながめがよく、山手線や湘南新宿ライン、埼京線など渋谷駅を通過するJRの人気車両のビュースポットだ。最近は渋谷にくることもほとんどないが、35年前の渋谷を知る者としては、ずいぶん変わったなぁという印象だ。

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2020年5月31日 (日)

神田上水石樋

 徳川家康が江戸に入った後、市中には上水道が次々と建設された。最初に開削されたのが小石川上水で、これは後に神田上水となったが、水源は武蔵野市と三鷹市にまたがる井の頭池だ。神田上水はいまは神田川と呼ばれているが、文京区関口にあった関口大洗堰(せき)を経由して小石川後楽園方面に上水を流した。文京区にある本郷給水所公苑には、神田上水で実際に使われた石樋(せきひ)が移築復元されたものがあり、往時の姿をいまに伝えている。それにしても、このあたりは水とか川、水道にまつわる地名が多い。そのものズバリの水道に水道橋、小石川、お茶の水、関口、大曲などなど。明治に入り、水道が近代化されるに及んで、神田上水も廃止となった。

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2020年5月24日 (日)

上中里駅

 北区にあるJR上中里駅は、東京23区内のJR駅の中でも最も利用者の少ない駅の一つだそうだが、京浜東北線が武蔵野台地の崖に沿って敷かれたことがよくわかる駅だ。駅の北東側は平地、南西側は台地となっていて、線路からはけっこうな高さになっている。上中里駅の南東にある中里貝塚は、普通の貝塚とは違い、縄文時代の水産加工場ともいうべき大規模な貝塚だ。発掘された遺構から浮かび上がったのは、単なるゴミ捨て場ではなく、組織的に浜辺で貝を蒸し焼きにする加工場の姿だという。縄文時代のイメージをも覆すような貝塚だ。

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2020年5月13日 (水)

京都新城

 豊臣秀吉が死の前年に築いた京都新城(太閤御屋敷)の遺構が発見された。関白秀吉は聚楽第で政務を執ったが、甥の秀次に職を譲ってからは伏見城に移った。そして、秀頼が誕生し、秀次に自刃を命じた後は、聚楽第を徹底的に破却させた。新城はその後、秀頼のために築いた城だという。遺構が見つかったのは京都御苑の中で、御所(内裏)のすぐそばだ。織田信長は天下布武をめざし、徳川家康は征夷大将軍に就いたが、秀吉は武士のトップになることよりも、天皇の権威のもとに公家のトップになることをめざしたということなのだろうか。秀吉死去後、新城には北政所(おね)が住んだが、北政所の死去後に解体され、仙洞御所(上皇の御所)が築かれた。それにしても京都はすごいまちだ。あちこち掘り返したら、歴史を書き換えるような遺構・遺物がいくらでも出てくるんだろうな。

Kyotoshinjo

2020年5月 6日 (水)

二十間道路桜並木

 北海道でも桜が咲き始めたようだが、今年は行けそうもない。この時期は生まれたばかりの子馬もたくさんいて、いい季節なんだけどなぁ。しずない桜まつりも中止ということで、「二十間道路桜並木へのご来場については、ご遠慮ください」だそうだ。

Sakura

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