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カテゴリー「バイク、旅」の記事

2020年9月15日 (火)

小石川後楽園

 小石川後楽園は、徳川頼房とその子光圀が築いた日本庭園だ。頼房は家康の十一男で、九男の義直を始祖とする尾張徳川家、十男の頼宣を始祖とする紀州徳川家と並ぶ御三家の一つ水戸徳川家の始祖だ。光圀はご存じ水戸黄門のモデルとなった人物で、「大日本史」を編纂するなど、学問を奨励した。この地はもともと水戸徳川家中屋敷の庭園であり、中屋敷は後に上屋敷となったが、上屋敷があった場所は東京ドームや後楽園遊園地となっている。「後楽園」という名前の由来は中国の古典にあり、「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」からとられたそうだ。井之頭池を発した神田上水も、ここ小石川後楽園に流れ込んでいたという。

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2020年8月21日 (金)

怪談牡丹燈籠②

 毎夜、恋仲のお露と逢瀬を重ねる新三郎は、日に日にやつれていく。不審に思った者が部屋をのぞくと、新三郎と一緒にいたのは骸骨だった。お露とお米は死後、谷中三崎(さんさき)町の墓に葬られたが、そこから毎夜、下駄の音を響かせながら、新三郎のもとを訪れていたのだ。このままでは新三郎は死んでしまうと心配した周囲の者たちは、和尚に相談する。和尚は、仏像を肌身離さず持ち、魔除けの札を家中に貼り付けておけば、幽霊は入れないとアドバイスする。しかし・・・。というわけで、新三郎は結局死んでしまう。お露とお米の墓があったのは谷中三崎町ということだが、団子坂下から上野台地に登る坂は三崎坂という名前だ。ここから根津の清水谷まで、当時は不忍通りがないので、お露とお米(の骸骨)は藍染川に沿って歩いたのだろうか。

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2020年8月20日 (木)

怪談牡丹燈籠①

 暑い夜が続くので、ちょっと怪談話でも。日本三大怪談といえば、四谷怪談と皿屋敷、牡丹燈籠(ぼたんどうろう)だ。このうち牡丹燈籠は、谷根千が舞台だ。根津の清水谷に住んでいた浪人の新三郎はある日、お露という女性と出会う。2人はたちまち惹かれ合うが、内気な新三郎はなかなかお露に会いに行けず、お露は恋い焦がれるあまりあわれにも死んでしまう。女中のお米も、後を追うようにして死ぬ。しばらくして、新三郎が十三夜の月をながめていると、カラ〜ン、コロ〜ンという下駄の音が。見ると、牡丹燈籠を提げたお米とお露の姿が。新三郎はお露に会えたことを喜び、それから毎夜、お露は新三郎のもとを訪れるのだった。新三郎が住んでいたのは根津の清水谷ということだが、これは根津神社の近くだろうか。このあたりは本郷台地と上野台地との間の谷になっているが、これはもともと、武蔵野台地が藍染川(谷田川)に浸食されてできたものだ。

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2020年8月10日 (月)

竜閑さくら橋

 大手町と神田とを分断する日本橋川に2年前、竜閑(りゅうかん)さくら橋が開通した。竜閑というのは変わった名前だが、かつてこのあたりに竜閑川という川が流れていたそうだ。竜閑さくら橋は歩行者専用橋で、JR東京駅ー神田駅間の線路に平行していて、絶好の鉄道ビュースポットでもある。なんといっても東京駅の近くなので、ひっきりなしに電車が通過するのだ。

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2020年8月 8日 (土)

江戸城の門⑱ 常盤橋門

 「円」の形でおなじみ日本銀行本店前にあった常盤(ときわ)橋門は、江戸城外郭の正門に当たる門だ。ここは保存状態が良好で、石垣の3分の2がまだ残っているということだ。江戸時代は木橋だった常盤橋は、明治になって石橋となり、その名も常磐(ときわ)橋になったが、これが東日本大震災で変形、いまも復旧工事をしている。渋沢栄一の銅像もあって、歴史を体感できるところだ。

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2020年8月 6日 (木)

江戸城の門⑰ 神田橋門

 神田明神はもともと、いまの神田橋にあったという。江戸時代初期に現在地に移転したが、近くにあった平将門の首塚はそのまま残った。そして神田明神の跡地には、神田橋門がつくられた。神田橋門は、将軍が上野寛永寺や日光東照宮に参拝する際の御成道だったということで、たぶん立派な門だったんだろう。残念ながら、往時をしのばせるものは、いまはもうほとんど何も残っていない。近くには経団連会館や金融機関、マスコミなどのビルが林立していて、いわば日本経済の中心地に変貌している。

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2020年8月 4日 (火)

江戸城の門⑯ 雉子橋門

 JR水道橋駅西口で神田川から分岐した日本橋川は、江戸城内堀をかすめるようにして日本橋方面に流れるが、最も内堀に接近するところに雉子(きじ)橋門があった。雉子は徳川家康の好物で、朝鮮の使節を饗応するため、このあたりで雉子を囲っていたというのが名前の由来だそうだ。いまはもう門じたいはないが、東京メトロ市ヶ谷駅構内の江戸歴史散歩コーナーに、雉子橋門の石垣が復元されている。

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2020年6月29日 (月)

花月園駅前踏切

 京浜急行電鉄の花月園前駅は、つい最近花月総持寺という駅名に変わったが、日本一長い踏切がある駅として知られている。JR横須賀線、京浜東北線、東海道本線、東海道貨物線、京浜急行本線の計10本の線路があり、ひっきりなしに電車が通過する。もちろん、日中はほぼ「開かずの踏切」状態だ。人道橋からは、通過する電車も踏切の様子もよく見える。駅の住所は横浜市鶴見区生麦5丁目で、あの生麦事件の現場はここから1㎞くらいだ。薩摩藩の大名行列に乗り入れたイギリス人が殺された生麦事件は、その後薩英戦争へと発展するが、薩摩藩はイギリス艦隊に打撃を与え、一転してイギリスとの関係を深めていく。

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2020年6月27日 (土)

江戸城の門⑮ 和田倉門

 いまは皇居外苑和田倉噴水公園がある和田倉地区は、かつては東京湾の入江に面していたそうだ。江戸時代初期に埋め立て工事が行われ、荷揚げ場や倉庫が置かれたが、その頃和田倉橋と和田倉門がつくられたという。その後は大名屋敷になったり、幕府御用屋敷になったり、厩(うまや)になったりしたようだ。1868年10月13日、明治天皇はここ和田倉門から江戸城に入城、時代は江戸から明治に移る。残念ながら門じたいは関東大震災で大破し、石垣が残るのみだ。

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2020年6月26日 (金)

江戸城の門⑭ 馬場先門

 徳川家光時代に築かれた馬場先門は、はじめは橋が架けられず、武士の通行さえ許されない(というか、そもそも通行できない?)門だったそうで、「不開御門(あかずのごもん)」と呼ばれたそうだ。ここで家光が曲馬(馬の曲芸)を見物したことから、馬場先門という名前になったという。その後橋も架けられたが、明治時代に提灯行列で多くの死傷者が出たため、橋が撤去されて道路ができたという。馬場先門の近くには、明治時代に製作された楠木正成像が堂々とそびえている。

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